同じ阿呆なら踊らにゃ損々

徳島の阿波踊り歌の出だしに「踊る阿呆にみる阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という一節があります。

「せっかく阿波踊りに参加するなら見るだけじゃなく踊ろうよ」というニュアンスで理解してきましたが、最近人生にも当てはまると考えるようになり、また勇気づけられる言葉でもあります。

なぜ勇気づけられるかを自分なりの言葉で噛み砕いてみようと思います。

限りある人生。どう生きようとも等しく時間は過ぎていく。

楽しいことも、嬉しいことも、大変なことも、落ち込むことも、喜怒哀楽をはじめ多くの出来事や感情を抱きながら過ごす人生。

楽しむも落ち込むも同じく限りある時間を使って過ごしている人生です。

そんな人生ですが、忙しくなったり、大変な状況になると目の前の状況を楽しめなくなることがあります。

正直自分の能力は知れている。

また周り人に良く見られたいという気持ちから、見栄を張ったり、賢く振る舞ったりすることもあります。

世の中を生きていくためには大切なことだと思いますし、そう振る舞う方が良い時も多々あると思います。ただ、本来の自分にとってはそこまで価値がないのに入らず知らずのうちに執着しているとしたら楽しめていないこともあるかも知れません。

実際、まともに振る舞うことで生き苦しさを感じることもあります。

自分はそんな大それた人間ではないよね、自分に無理せず過ごそう、と開き直れば、とても清々しい気持ちになります。さらにもっとやりたいことをやろうとさえ思えてきます。

未来の自分からすれば夢にも思えるこの恵まれた一瞬。

忙しい日々を過ごしていると、目の前の世界が全てだと思う時があります。家族のこと、学校のこと、会社のこと、人間関係のことなど、目の前の出来事に一喜一憂してしまうことも多々あります。時に自分の不出来さや、自分には何もないとさえ感じてしまうこともあるかも知れません。

でもふと視点を変えると人はみんな歳を取り、いずれ旅立っていきます。

もちろん自分も。

何もないと卑下しても、死ぬ直前の自分が今の自分を見たらどれだけ恵まれているかがわかります。

若い人には多くのことにチャレンジする時間や体力があります。いや、何歳でも死ぬ直前の自分からすればずいぶん多くの時間や体力があります。家族や友人、貯金もあるかも知れません。全部ができるわけではないかも知れませんが、死ぬ直前よりは、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、会いたい人に会え、見たいものを見ることができるはずです。

信じられない多くのくらいのことを今の自分にはやることができます。

ただ、それは短くはないけど、永遠に続くものでもありません。

また5年、10年と時間が経っていけば、人も変わり、学校も、会社も、社会も変わっていきます。生きている今は限られた人生の中の二度とない一瞬です。

恵まれた一瞬を堪能したい。

どう過ごしても過ぎゆく限りある自分の人生。

「今」という一瞬が実は多くのできることに囲まれていると思えば、何気ない時間だと思っていた「今」に何か楽しことをやりたいと勇気を与えてくれる気がします。